サグラダファミリアの永遠の思想ーガウディ不在の建築の宿命
サクラダファミリアには、1986年の夏、おおよそ四半世紀前にバルセロナのガウディの作品に立ち寄りました。この頃はまだまだ未完成で完成まであと数百年はかかるだろうと云われてました。
現在では28年前のひと昔とは違って状況が変わっています。あと十数年後の完成を目指して、3Dプリンターの導入や、石造では石自体が品薄で施工には非常に時間がかかるので、高品質のコンクリートがこれに代用され、最近では完成を急ぐあまり鉄筋コンクリート造で建築されています。これにはとても驚いてます。
ともあれ、あと十数年で完成させる意気込みは感じられますが、ガウディはがこのような進め方を果たして望んでいたのでしょうか?果たしてそのコンクリート造は何年もつのでしょうか。
100年後には崩壊してしまうのだろうか。ただ、これも今の時代背景の流れに吞み込まれてしまった、ガウディ不在の建築の宿命で、サグラダファミリアの運命なのかもしれません。
ただ私が訪れた時も不安な要素はありました。
細い小塔に登った時の事でしたが向かいの塔のバラ窓が、円形ではなく明らかにひしゃげていました。石像の積み上げて行く精度なのか、明らかに一部が沈下している様にも見えましました。このままではさらに巨大な塔が建って行くとしたら、近い将来の完成時にはきっと崩壊するのではと予感しました。
ところで、ピサの斜塔は傾いているからこそ美しい事や、数々のヨーロッパの教会は多くの場合に左右対称ではありません。
微妙に左右が違っていたり明らかに未完成のままの姿でいたりしています。
それは作られた年代やその時の時代背景の違いや、建築の美意識や思想が違うため左右のデザインやサイズやスケールがが違います。プランを見ていたら左右に大きな塔がある設計のはずが、片方しか塔が建っていない場合があります。ただそのアンバランスさ、完成していない美学、「未完成の美学」のようなものの方が美しく生き生きと感じられるのは何故でしょう。
サクラダファミリアも永遠に完成しない方が想像力も働き、その方がよかったのかもしれません。塔の下で石工が永遠に終わりが見えないながらも、その完成の姿を夢見つづける姿が魅力です。そう「未完成の美学」です。バベルの塔がそうである様に、この建築もそうであってほしいと思います。何故ならその建築に、ガウディの意思や永遠な思想がそこに重ね合わされ、その奥深さが感じとれるからなのでしょうか。